万世橋から電気街を望みます
東京秋葉原に「万世橋」から名前をとった肉の万世が産声を上げましたのは、まだまだ戦後の混乱も収まらない昭和二十四年九月九日のことでした。
電気部品商より、折からの統制の外された食肉業への転業として、創業者鹿野明・ソノ子夫婦は素人の発想を生かした独創性により、現本店の地に小さいながらも当時としては斬新なガラス張りの精肉と惣菜店の暖簾を出すことが出来ました。また、包装紙もまだ古新聞が使われていた時代でしたが、何か楽しい夢のあるものと童画家林義雄先生にお願いしてモーちゃん、ブーちゃんの描かれた楽しいものをデザインして頂きました。この包装紙は現在もそのまま使っております。
電気部品商より、折からの統制の外された食肉業への転業として、創業者鹿野明・ソノ子夫婦は素人の発想を生かした独創性により、現本店の地に小さいながらも当時としては斬新なガラス張りの精肉と惣菜店の暖簾を出すことが出来ました。また、包装紙もまだ古新聞が使われていた時代でしたが、何か楽しい夢のあるものと童画家林義雄先生にお願いしてモーちゃん、ブーちゃんの描かれた楽しいものをデザインして頂きました。この包装紙は現在もそのまま使っております。
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当時の日本人全てが抱いていた「おいしいもの」へのあこがれと、折からの食生活の洋風化と共に少しずつですがお客様に知って頂くようになりました。
万かつサンド、洋食ずし(こちらは残念ながら現在では製造しておりません)等の独創的な商品開発により後楽園球場のナイターや、小田急ロマンスカー車内での販売等によりお年寄りからお子様まで幅広いお客様に喜んで頂くこととなり、知名度の向上にも一役かいました。また、お馴染みの赤い牛マークがお目見えしたのも丁度この頃でもありました。このマークはグラフィックデザイナーで著名な福田繁雄先生によるものです。
万かつサンド、洋食ずし(こちらは残念ながら現在では製造しておりません)等の独創的な商品開発により後楽園球場のナイターや、小田急ロマンスカー車内での販売等によりお年寄りからお子様まで幅広いお客様に喜んで頂くこととなり、知名度の向上にも一役かいました。また、お馴染みの赤い牛マークがお目見えしたのも丁度この頃でもありました。このマークはグラフィックデザイナーで著名な福田繁雄先生によるものです。
(公式HPより)
photo©ara