「皇居正門石橋」と雪化粧をした「伏見櫓」
二重橋について
「皇居前広場の一番人気は、なんといっても伏見櫓を背景とした「二重橋」ですが、普段目にしている石造りの橋「皇居正門石橋」が二重橋と思われている人も多いようですが、実はその奥にある橋「皇居正門鉄橋」を二重橋と言います。
「皇居正門鉄橋」は、1614年(慶長19年)当初、二重構造(木造)であったことが、名前の由来となっています。現在の橋は、明治宮殿造営(完成明治21年)に当り、錬鉄製の橋に架け替えられ、更に昭和の新宮殿造営(竣工・昭和43年)に先立ち、意匠など大幅な変更をせず架け替えられて現在に至ります。
「二重櫓の両袖に多聞櫓(防御を兼ねて石垣の上に設けられた長屋造りの建物)を備えておりますが、このような形は、ここだけしか残っていません。伏見櫓の名称は、豊臣秀吉が京都伏見に築いた伏見城の一部を使用したという「伝」によるものです。また、多聞櫓は、1559年(永禄元年)に、戦国武将の松永久秀が築いた大和(奈良)多聞城の櫓が始まりとされています。江戸城には、当時19もの櫓が存在しましたが、現在では、桜田巽櫓と富士見櫓の3基を残すだけです。」
高欄(人止柵)について(写真右手)
「二重橋の手前側に、お濠に沿い設置されたブロンズ製の高欄(人止柵)は、ギリシャ建築コリント様式で使われるアカンサス(ハアザミ)の葉をモチ-フとしており、1889年(明治21 年)に完成した明治宮殿へのアプローチとして造られたものです。」
雪片が風に舞い、幻想的な光景が出現していました。
皇居前広場のルーツ
「江戸時代以前、この辺りは漁業が盛んな日比谷入江に面していましたが、江戸時代には埋め立てられ、老中や若年寄りなどの屋敷が立ち並び「西の丸下」と呼ばれるようになりました。明治時代には、これらの屋敷が官庁の庁舎や兵舎などに使用されたりもしましたが、やがて撤去され広場化されました。その後、明治21年に至り、「皇居御造営」完成後の事業として、皇居前広場のクロマツなど植栽整備も行われています。戦後、国民公園として整備され、現在に至っています。
photo©ara
(HP写真以外)